体罰教師の呪縛がとけたのは43才になってからでした。

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■ 部活は楽しいもの

部活に所属する意味において人それぞれの価値があると思います。

・ サークル的な、少し体を動かしワイワイするのが楽しい!と言う人。

・ 真剣に優勝、日本一を目指すストイック的なものを求める部活。

僕は、身体を動かすことが好きで、その延長で優勝などの結果に繋がれば嬉しいと思っていました。何が何でも優勝するためというよりは、僕も含め部員の誰かが、できない事が出来るようになる喜びの方が強かった。

皆が支え合い、できない事が出来るようになり、そうなる為に工夫をする。その工夫には辛い練習もあるけれど、やらされているという気持ちは微塵もないというのが理想でした。

■ 僕が受けた体罰

叩かれ役が必要。

これは、他の先生から聞いたことです。

誰かが叩かれることで、ミスをしてはいけないという気合が他の部員に伝わるそうです。

どう考えても主将である僕は、圧倒的に叩かれていました。これは「叩かれ役」なのだと思います。

笛の紐

笛の紐で、腿の裏、顔をムチのようにして殴られます。紐の網跡が残る位のみみずばれができます。紐が目に入る事もあります。

平手打ち

手のひら、手の甲関係なく往復でビンタをされます。頬やあごの骨あたりにヒットするので、口の中がぼろぼろに切れます。

晩御飯は口の中がしみて苦労した記憶があります。首のすわりが悪くなるような強烈なビンタで鼻血が出ることもありました。

つねる

乳首をつねられます。脇腹をつねられたりしたこともあります。

これも痛いです。

竹刀の棒

竹刀をバラバラにした事がある人は分かると思いますが、バラした竹の1本を半分くらいにして、その棒で腿の裏や顔を叩かれます。

蹴る

適当な場所を蹴られます。

これら体罰は、シュートミスなどプレイがうまくいかなかったときに行われますが、毎日、2・3回は何かしらの体罰を受けていました。

勝ちたいけれど、それが目的ではない僕は毎日が苦痛でした。

体を動かすことは好きだけれど、今の部活では勝ちにこだわり過ぎた練習ばかりで楽しくない。チームメートが体罰を受けていたら、楽しくない。

運動って楽しいものだと思っている僕はとことん部活が嫌になりました。体罰されるたびに、からだが委縮してミスが増え、更に体罰が増えました。

■ 転部を決意

運動は得意だったので、違う部への転部を顧問の先生に申し入れました。すると、今の部活動の先生を説得したらこっちで所属させてやると救いの声を頂きました。

体罰教師は「頑張ったら推薦状(大学)」とか書けたのに・・」(パワハラ)

と言って僕をあざ笑っていました。

チームメートや後輩にも、主将である僕が辞める理由を説明して、納得をしてもらいました。そうして、部活をやめる事が出来た僕は転部先の顧問にそれを報告しました。

すると・・・

「あの先生とは同僚だから、お前を転部させるわけにはいかないんだよなぁ。」

と、返事が返ってきました。

結局、大好きな運動が出来る部活を探すことが出来ず、高校2年の秋くらいからは、ジョギングしたり鉄棒したり、筋トレしたり、ひとりで運動をしていました。

■ トラウマ

こうした事の経験は、しばらくの間「挫折」というトラウマを僕に背負わせました。どんなに辛くても続けた部員は偉く、僕は諦めた人。その挫折感は社会人になっても影響しました。

今は、そんなトラウマは有りません。

体罰を我慢せず、嫌なものは嫌と言いだした生徒は僕だけです。それは挫折ではない。

もし、僕の代わりに叩かれ役がいたら、その人はどれだけ耐えられただろうか?きっと、僕より早くやめていたに違いない。

でも・・・、辞めたくなかったよ。運動が好きだから。それが悲しい。

楽しくない運動を続けることに意味があったのか?楽しい延長に勝利がある部活を目指す僕にとっては、楽しくないというのは、部活を続ける意味が無い事。楽しくても辞めるなら挫折だけれど、楽しくなくなってやめるのは挫折ではない。

僕は僕の意志を貫いただけ。

そういう部活を耐えた人は、僕から見れば偉いと思う。けれど、”体罰に勝って偉い”のではなく、恐らく楽しくない事を続けるという辛抱強さが偉いのだと思う。その辛抱の先に「勝利」を信じて続ける・・・

辛抱して勝利を得るような部活を求めていないので、辞めて正解。

■ 結局、それは職務放棄なんだ

体罰する人って頭の中に持っている単語が少ない。だから、説明すより自分でやって見せたりする。そして、カッと血が上ると言葉では説明できないから暴力となる。

これは、指導において明らかに職務怠慢!

もっと、分かりやすく納得できるような説明が出来る努力を教員もすべき。自分がそういう時代に育ったからといって、そういう努力を怠っていいという理屈はない。人の上で教えるという事はそういう事だ。

ミスらなかった時の喜び、うまく行った時の喜びを生徒の感情に深く植えつければ、ミスも減るはずだ。

そんな人間の感情を、どうしていい大人が、教育者が、判らないのだろう?

・・・オノマトペ。