「体罰」は必要ない。先生の憂さ晴らしにはもううんざり!そんな教師はいなくなれ!

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「体罰」は必要ないという理由

部活動を指導する先生の中には「体罰」を行う人がます。

最近では、「体罰」は、マスメディアを賑わす格好の話題です。

世間でもかなり問題視されていますが、残念ながら「体罰」は完全には無くなりません。

毎年1回や2回、「体罰」がニュース沙汰になることを考えると、ニュースにならない事例は数えきれないほどあるのだと思います。

「体罰」が無くてもチームは強くなります。

また、愛情だけがある愛のムチと呼ばれる「体罰」は存在しません。

これからそのことについて説明をしていきたいと思います。

生徒を叩く心理:そもそもどうして叩くのだろう?

体罰を与える側や体罰を受けて育った人の中には「体罰」は”愛のムチ”だという人がいます。

しかし、人を叩くときに「怒り」や「憎しみ」が微塵もない人はいません。

どうして生徒に対して「怒り」や「憎しみ」が生まれるのでしょうか?

  • 自分の教えたとおりに生徒が動かない(先生の思い通りにならない)
  • 肝心なところでミスをする

大体がこういう事だと思います。

”どうして言われたことができない!どうして肝心なところでミスをするのか!?”

こういう感情が「怒り」となり、自分の指導してきた時間が「無駄」とも呼べる結果に「憎しみ」まで生まれるのではないでしょうか?

生徒のこの先の人生を想い、心では泣きながら「体罰」を行うという事はないと思います。

僅かではありますが、必ず「怒り」や「憎しみ」が心のどこかにあります。

逆に、そうした「怒り」や「憎しみ」がない状態、つまり、生徒が自分お教えた通りの動きをして、チームが勝利した時に「体罰」をするでしょうか?

・・・絶対しないはずです。

愛のムチだというのなら、チームが勝利しても「愛」のための「体罰」が存在するはずです。

しかし、そういうケースでの「体罰」を見たことがありません。

このことは、「体罰」には必ず「怒り」や「憎しみ」が存在するという証明となります。

その「怒り」や「憎しみ」を晴らすために、大義名分を掲げて「体罰」が行われるのです。

代表的な大義名分は以下の通りです。

  • チームの勝利のため
  • その生徒の将来のため
  • 同じミスをしないため

いろいろ大義名分を掲げても、結局は、本人の憂さ晴らしなのです。

僕は、そう結論付けています。

何よりも楽しいことを優先しなければならない!

「体罰」のある部活動は、日々どんな練習になるのでしょうか?

自分の教えたとおりに動かない場合に「体罰」を行います。

そうやって、体に痛みを与えて動きを覚えさせます。

肝心なところでミスをしないように、ミスをしたら「体罰」を与えます。

そうやって、体に痛みを与えてミスをさせないように訓練していきます。

「完璧な理想の動きを習得し、ミスを減らす」練習は面白くも何ともありません。

なぜなら、実際問題としてミスをしないということはありえないのですから。

これは大人が自分の仕事と部活を置き換えれば、簡単に想像がつくと思います。

ミスのない仕事はすばらしい。

しかし、今までミスをした事が無い人はいないはずです。

また、ミスをしないようにする事ばかりに気を取られる仕事はつまらないです。

まして、ミスをしないためだけにセミナーに缶詰めにされることは、全く楽しくありません。

さて、僕が所属していたバスケット部では「体罰」が日常的に行われていました。

他の教育者も注意など一切しません、そんな高校でした。

そんなバスケット部の練習は・・・

チームメイト全員でランニングシュートを行い、40本連続でシュートが決まらなければ、また最初からというものがありました。

「萎縮(プレッシャー)」に耐え、シュートを決めることで精神的に強くなりミスが減るという方針だと思うのですが、シュートをはずしたらどうしようという萎縮が先行してしまい、結局、僕はミスをしました。

そして「体罰」を受け、連帯責任のもと最初からその練習をはじめました。

そのため、連続でシュートが決まらないと練習は続き、帰宅が遅くなることもありました。

この練習で僕が覚えたことは、ミスをしたら「体罰」されるということだけでした。

「体罰」による痛みが身体に刻まれ、ふとした瞬間に「体罰」を受けたくないという気持ちから身体が萎縮します。

特に試合の肝心な場面ではそういう気持ちがよく沸き起こり、よくミスをしてしまいました。

ミスをした試合の後は、他校の生徒がいる前で鼻血が出るほどビンタをされ、しばらく食事をするのが億劫なほど口の中がずたずたに切れ、顎のかみ合わせも悪くなりました。

当然、その光景を見た僕のチームメイトは萎縮していました。

しかし、心の半分では「自分でなくて良かった・・・。」という気持ちもあったと思います。

しばらくして僕は退部することを決めましたが、長い間、挫折感でいっぱいでした。

当時、主将を務めていたのですが、責任を放棄することも挫折感に拍車をかけていました。

この一連の経験はトラウマとなりました。

社会人になっても、何かを辞めようとする度に「自分は根性がない」と自分自身にレッテルを貼っていました。

本当に長い間・・・45才過ぎてようやく、その挫折感から解放されました。

僕という人間は、運動は楽しいものだと思っています。

楽しいから運動をし、勝つから楽しい、勝ちたいから練習をする。そんな思考回路です。

当然、負ければ悔しいので練習をします。

ミスをしない事を想定した練習もしますが、ミスをゼロにするような練習は嫌いです。

僕の顧問の先生のように「ミスを減らす」ことばかりに注力するから、生徒がミスをすると ”あんなに練習をさせたのにミスをして!”と腹が立ち、生徒を殴るのではないでしょうか・・・。

結果的に、僕のような人間は萎縮してしまい、何のために運動をしているのか分からなくなり退部をしてしまいます。

「体罰」を受ける楽しくない練習は、運動そのものを楽しめなくさせます。

楽しめない練習を日々繰返し、その結果、チームが強くなっても何が楽しいのでしょうか?

勝つことは目標であるけれど、それが全てではありません。

本来、そういう事を先生という立場の人間は教えなければいけないと思います。

何よりもまず、楽しいから運動をするということが、大切です。

ミスを減らすのではなく、他で補うという考え方

楽しいだけではダメだという別の先生がいました。

当時の僕を取り巻く環境では、楽しく強くなることが可能だということを知らない先生が多すぎました。しかし、可能なのです。

誰だって強くなりたいのです。

その為には練習に練習を重ねます。

「体罰」をされる時よりも辛い練習にだって耐えられます。

そういう気持ちなのです。

「体罰」が無くても練習に励みます。

「体罰」は単なる、先生の憂さ晴らしです。

生徒が運動に対して楽しく取り組めるようにするには「ミスを減らす」体罰付きの練習ではなく「圧倒的な得点力を身に付けるため」の練習をさせることが大切です。

ミスはするものです。

ミスをゼロにすることは出来ません。

ミスを減らす努力ばかりしていても楽しくありません。

そのミスをリカバリーするような、圧倒的な得点力が生徒に備わっていればいいのです。

その為の練習のほうが圧倒的に楽しいです。

どうしたら得点力を上げられるのかを必死で考え、そのための練習もします。

自分の得意な事をさらに伸ばすことで、得点力を高める練習を自主的にします。

例えば、バスケット・・・。

この競技は、どうしても身長の差が有利不利に働きます。

誰よりも機敏な動き、誰もがつられてしまうフェイント、ロングシュートの正確性・・・そうしたものを磨けば、ミスをカバーできるはずなのです。

背が小さいのにジャンプ力を強化して、ゴール下の争いに負けないようにすることには限界があります。

170cmの生徒が1mもジャンプする力を付けたとしても、190cmの生徒が1mジャンプすれば、当然、その生徒に勝てるわけがないのです。

170cmの生徒が1mジャンプできるようになる練習よりも、190cmの生徒よりも機敏に動ける練習をする方が遥かに有意義です。

人間、いっぱいいっぱいのところで頑張るからミスをするのです。

先程の例で言えば、170cmの生徒が1mジャンプして190cmの生徒と争うという状況は、これ以上頑張れないところで頑張っているという状況です。

そうした余裕のない状況でミスをしないでプレーをするというのは、大変難しいことです。

余裕がないから、イレギュラーな事が起これば、それに対処できず、ミスをするのです。

先程のように、身長で不利ならば、ジャンプ力を強化するのではなく、機敏性や長距離のシュート力を磨けばいいのです。

機敏性が苦手なら、とにかくシュート力だけを磨くのです。

そうやって、自分の好きな事を圧倒的に伸ばせば、ゴール下の争いに負けても簡単に得点を取り返すことができます。

「好き」を磨き、どうしたら必ず発生するミスをカバーすることができるのか?

それぞれ、得意な事を分析して、チーム内での役割に置き換えていけば、自然とチームは強くなると僕は信じています。

しかし、チームが強くなることが最終目標ではないというところは強調しておきます。

自分の可能性を伸ばすことが楽しいから運動をするのです。

ミスしても他で取り戻せばいい!そういう環境があるから、運動は楽しいのです。

チームの勝ち負けはあくまでもその時の結果です。

負けても楽しく負けたのなら、それでいいのです。

最後に

社会人になってからも僕は・・・

あの時の体罰教師を尋ねて行って、殴ってやりたいとずっと思っていました。

ネットで検索した事もありました。

しかし、お亡くなりになっているようでした。

それでも墓石を蹴り倒してやりたいという気持ちが、今でも少なからずあります。

比較的若くしてお亡くなりになりましたが、ざまぁみろ!という気持ちがあるのも本当です。

それだけ、僕には失ったものが大きかったのだと思います。

こういう風に文章に書くことで、気分は落ち着いてきています。

しかし、毎年1回や2回、「体罰」がニュースになると腹が立って仕方がない時があります。

僕も一発ぐらい殴り返せていたら、こんな風にならずに済んだのかもしれません。

ただ、行動に移せば、あの体罰教師と同じだと自分を戒めています。

それがあるからこそ、墓石を蹴りに行くような行動をとらずに済んでいます。

ここまでお読みいただき「体罰」が無くても強いチームは作れることと、純粋な愛情だけの「体罰」は存在しないということはご理解いただけたと思います。

まとまりに欠け、読みにくい部分も多々ある内容です。

僕自身は、言いたいことは伝えられたと思っています。

みなさまには伝わりましたでしょうか?

この文章を部活動で悩むお子さんをお持ちの親御さんに読んでいただけたら嬉しいです。

そして、部活を教える先生にも読んでもらいたいです。

「体罰」によってチームに勝利がもたらされても、嬉しいのは先生だけだということを理解していただけたら幸いです。

最後までお読みくださいまして、ありがとうございました。