父親。

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父親が亡くなったのは中学2年の6月。

私はすでに父親の亡くなった年齢を超えています。

写真に手を合わすとき、ふと、もう父親も年下か… と不思議な気分になるときがあります。

そんな父親との思い出は、キャッチボール。

野球やスポーツ全般が上手だった父は、発想も独特。

早朝から、坂道を10本走らせ、ストップウォッチでタイムを計る。

早朝のジョギングの後にだ。。。。

自転車のチューブを車庫の鉄骨にくくりつけ、その輪の中に私が入り、腰の位置にチューブをあてがったまま、テンションを保ちながらの「腿上げ」練習。

父親が出張などでいないときは、坂道ダッシュでタイムを計られることはないので、手抜きもできるのですが、とにかく朝からハード。

小学校高学年から、冬の日でもそうしたトレーニングをやらされてきました。

朝の日課の締めくくりは、ショート缶のトマトジュースを飲み干すこと。

…と、まぁ、普通の小学生では経験できない毎日を送ってきましたが、キャッチボールもユニークです。

うちの前には、川幅80cmほどの流れの少ない川が流れていて、自宅前と車庫前にコンクリートの小さな橋が架かっていました。

私と父親はその2つの橋に分かれて立ち、キャッチボールをします。

基礎トレーニングより、何よりこういうのが好きなのですが、私のコントロールはひどいものでした。

それを直させるためなのか、父親の胸のあたりに来ないボールはキャッチしないというルールを作りました。当然、キャッチしないボールは川に落ちます。

それで、キャッチボールは終了となります。

時には、初球でキャッチボール終了という時もありました。

このせいで、コントロールはつきましたが、球を置きに行くという投法となってしまいました。これが無ければ、もっと、豪快な球を投げられたと思います。

思い出と言えば、スキーで転んだ時、いつまでも起き上がらない私を見て、血相を変えて滑り降りてきました。また骨折をしたのだと思ったそうです。小学校3年(?)のころ、スキーで骨折をした後のことだったので、心配だったのでしょう。えらく怒られました。

すぐに立たないと心配する!と。

早くに亡くなった父親ですから、強烈な思い出といえばこれくらいです。

父親としては、こんな思いでしか持たない息子をどう思うのだろうか?

もし、残念だと思っても、早く死んでしまった自分の責任もあるのだから、仕方がないと思うのだろうか?

聞くこともできないが、今となっては、聞きたいことはたくさんある。

強烈なサラリーマン人生だったから、その真反対を生きる私としては、議論を戦わせてみたい。

会社のためにほとんどの時間を使い尽くし、後悔はなかったのか? 聞いてみたい。

そのベクトルで物事を考えれば、私には会社のために尽くし続けた達成感はないが、家族との思い出は父親よりたくさん作れていると思う。

そうしたことをいろいろ話してみたいな。