もっと自由に楽しく上達させるには資格が邪魔な時もあるかもしれない。

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何でも資格、資格

建築や医療というものは「資格」は大切だし、その試験に受かるくらいの知識でなければ、家の設計や体のことは巻かせることは出来ません。

そういう仕事については、もっと厳しく、人柄審査までも試験に取り入れた方が良いと思いますが、スキーの資格とか英語の資格とか…、そういう資格の受験料で成立している団体の資格なんかはない方が良いと思っています。

スキー指導員とオリンピックメダリストスキーヤー

例えば、スキーを習う場合、通常はスキー学校に入学し1日~2日練習したあと試験が行われます。合格すれば、3級とか2級とかの資格が与えられます。

別に、スキーを上達させたいのならスキー学校で教わるだけで十分なのですが、自分も指導員とか資格を持って、冬の間は生徒に教えることで収入を得たいとなれば資格を取得していかなくてはなりません。

そうした世間の流れがあるので、素人がスキーを教わろうと考えたとき「資格」を持っているかどうかで相手を判断します。

そうした風潮がますます「資格保持者」の地位を高め、資格を持っている人に教われば安心という素人が増えていきます。

そうなると益々、資格を取ることが生徒を教え、収入を得るための近道となります。

資格を与える側の団体は、学校や資格取得のための試験料として収入を増やしていきます。

もし、オリンピックメダリストのスキーヤーがやってきてスキーを教えてくれるとしたらどうでしょうか?

世界に通用するスキーテクニックを最初から教えてくれます。けれども、そのスキーヤーは、スキーの資格は一つも持っていません。

それでも、スキー指導員よりは世界で活躍した人から教えてもらうのではないでしょうか?

選ぶ側の責任で風潮は変わる

先生を選ぶ側にも責任があると、私は思います。

楽しくスキーができるようになりたい、カッコよく滑れるようになりたい… いろいろな目標はありますが、そのためには必ずしも資格は必要はないということです。

また、無資格でも世界で活躍するくらいになれば、人に教えることができるということです。

団体が仕掛ける資格ビジネスに巻き込まれず、団体もまた、資格がなければ何も始まらないというような風潮を蔓延させるのは止めた方が良いと思います。

風潮の弊害

資格が無いと上手ではないという風潮は「やる気」を削ぎます。

資格が無くても上手な人はたくさんいますし、教えることも上手だという能力も兼ね備えている人もたくさんいます。

「資格」ばかりを重要視する風潮は、より上手な人からより上手に教えてもらえるチャンスを無くしているばかりか、そういうチャンスに恵まれなかったばかりにスポーツや勉強が嫌いになってしまう人たちも生み出してしまいます。

資格が無いと入社出来ないとか、資格=安心という依存度が上がり過ぎて、資格さえあれば人格も良好だという色眼鏡が付きやすくなります。

資格の有無にこだわり過ぎれば、本当に企業にとって必要な人材を門前払いすることになってしまいます。企業は、人を育てる機能があるということを忘れてはいけません。

資格が無意味なもの

  • TOEICなどの英語の資格
  • 習字の資格
  • スポーツインストラクターの資格
  • 足つぼマッサージ、など

数え上げればキリがありません。

もし、資格を与えるなら「人格テスト」も必要かと思います。

人に教える知識や実力があっても、人に教えることが下手な人はたくさんいます。

なぜ、教えることが下手なのか?

これは簡単です。

相手の立場になって考えられる経験をしてこなかったからです。

たまたまスキーが上手で努力もしてこなかったけれど、生まれた土地柄からか上手になってしまったというような人は、上手になろうとする努力をしてきませんでした。

だから、なぜ悩んでいるのか、どういう所が辛いのかを理解できません。それが教え方の幅を狭くし、生徒も、いつまでたっても上達しないのです。

何でもビジネスに結び付け、表面だけ立派なことを言って飾り立てて経営が持続できる時代は終わりました。消費者や生徒になろうとしている人は、ここのところに気付き始めました。

自分のしたい事は本当は何なのか?

ここに寄り添える本物の「師」をどうやって発掘し、輩出するのか…

学校の原点ともいえるところに立ち返る必要のある時代だということを忘れてはいけません。