人の返事(言葉)を信じられない
私が「あなたはカレーが好きですか?」と質問をしたとして
「はい、好きです。」
と返事が返ってきたとします。
私は「はい、好きです。」を信じられないのです。
ああいう風に答えてはいるけれど、本当は嫌いなのかもしれない。
だったら、なぜ好きと答えたのか?
”今度一緒にカレーを食べよう!”
と誘われない距離感に私の存在があるので、カレーを好きだと答えても誘われることもない。
だから、話しを合わせる程度に、そんなに好きでもないけれど好きだと答えたのか?
それとも、そんなに親しくないから、社交辞令程度か?
…こんな風に、どうしても、素直に相手の言葉を聞き入れ、信じることができません。
直接、本人に
「それ、社交辞令だよね?」
とも聞けないし…
もし、本当に
「それ、社交辞令だよね?」
と尋ねたとして
「いえ、本当に好きです。」
と答えが返ってきても、それも社交辞令かも?と思ってしまいます。
もし、本当に
「それ、社交辞令だよね?」
と尋ねたとして
「はい、社交辞令です。」
と答えが返ってきたとしても、
本当はカレーが好きだけれど、もう面倒くさいから…
『はい、はい。もう面倒臭い、何言ってもダメだね。』という気持ちから
「はい、社交辞令です。(本当はカレーが好きなのに…)」
と言ったのかもしれない。
そうなると、実はカレーが好きということになります。
そうなると、では、なぜ、私に「社交辞令です。」なんて言ったのだろう?
…と、どんどん枝分かれの想像が進みエンドレスになります。
想像は想像でしかない。実際に尋ねて、返ってくる答えは現実だ!
現実が欲しくて、仮に本当に尋ねたとしても…
本人から返ってきた答えを信じる事が出来ず、疑いの想像をしてしまう。
そうして、相手の本意をどこまでも疑い続けてしまうのです。
私のとしては、信じたいのです。
もう一人の私が出す疑問に対して明確な回答を出す。
そして、相手を信じまいとするもう一人の私をその明確な回答で打ち負かすために、頭の中でいろいろなシミュレーションをしてしまうのです。
けれども、必ず、もう一人の私の方が現実の私を超えてくるのです。
そのため、そうしたシミュレーションは終わることがありません。
本当に自分が嫌になる
そんな時期が続いて、本当に自分が面倒臭く、嫌になりました。
考えても考えても、返事の真意を知りたくて相手に尋ねても…
相手の言葉を自分が信じるに値する理由…というか、自分の心が腑に落ちる…というか、あーそれなら相手を信じて見よう!という現象というか自分なりの定義というか…こういう態度と言葉なら相手を信じても良いという「自分のなりの型(定義)」が見つかりませんでした。
たとえば、咄嗟に尋ねれば、いろいろ考える暇はないから本心が聞けるはずだと思っても、咄嗟ゆえに適当に応えたかもしれない…とか。
相手の表情を心理学的に読み解いて、その言葉が本心かどうかを疑ったり。そうしだとしても、相手も心理学を学んでいたら?それも無意味…。
どんなイントネーションでどんな表情で答えた言葉が本心なのか?それを定義する事に夢中になったけれど、見つかるわけもありませんでした。なぜなら、定義が見つかったとしても、もし、相手がそういう事を知っていて、そういうイントネーションと表情で答えていたら?と考えると、途端にその定義が崩れてしまうのです。
発想の転換
もう気が狂いそうなくらい悶々とした日々が続きました。
ある時、自分に「カレーは好きか?」と質問をしてみました。
「好き。」
という自分がそこにいました。
もう一人の自分が
「どうして好き?本当に好き?」
と尋ねると
「好き、本当に好き。」
と答える自分。
もう一人の自分が
「理由は?好きの理由は?」
と尋ねてくる。
「おいしいから。」
と答える自分。
もう一人の自分が
「その気持ちはどこから出てくるの?」
と尋ねる。
「・・・・・。」
眉間のところ?
胸の中心?
心臓あたり?
好きだという気持ちが、どこから出てきたものかわからない。
口先だけで答えたつもりはなく、確かに好きだから好きと答えたのだけれど、
どこから声にして発しているのか?
…わからない。
頭の中からのような気もするが、特定できない。
心がどこにあるかもわからないけれど、胸の中心から発したほど重くもない。
けれど、好きは好き!
理由を聞かれても、それがうまく答えられなくても、好きは好き。
…悶々と自問自答。
結局のところ、自分でも自分の好きに対して、発した気持ちの所在地を突き止める事が出来ませんでした。自分の好きという気持ちに、なぜ好きか?という説明が出来ませんでした。
好きは好き!それだけでした。
自分ですら、自分を問い詰めると、好きは好き!それだけ!
という答えしか出ない。
自分の言葉ですらそうなのに、他人の言葉なんて…。
他人が、好き!と言っているのだから、その人も好きは好き!なんだ。
…それだけ!なんだ。
もちろん、嘘もあると思うけれど、それを暴こうとすると不毛の思考のループに至ります。
ならば、そう答えているのだから、そうなんだろうと信じればよい。
好きは好き!それだけ!
私は、それを信じる。
相手の本心を突き止めようとその言葉が本当かどうかをいろいろ疑って不毛な思考回路に陥り神経すり減らすより、信じる方が楽だ。
信じられなくても、相手がそう言っているのだから信じる。
その方が楽だし、そうしようと思うようになりました。
これで、不毛な思考回路に陥って神経がすり減らずにすみます。
けれども、この決断はすぐには身に付きませんでしたし、全面的に信じることに違和感がありました。疑う気持ちが少しあるのに相手を信じようとするのだから当然です。
でも、不毛な思考回路に陥って神経をすり減らすのは、もう嫌です。
とはいえ、今でもこの悪い癖はたびたび出てきます。そういう時、この解決方法を私自身に残すために、それをまとめておくことにしました。
副産物をいただきました
こうして大いに悩んだことは、とても辛く、嫌な時間でしたが、ちょっとした嬉しい副産物を連れてきてくれました。
会話の中で、ちょっとした間(ま)や表情、言葉選びから、その人が本心なのかあまりそうではないのかを、かなりの確率で見抜けるようになりました(瞬間人間観察能力)。ただし、あくまでも相手を信じるというスタンスは変わりません。
信じているよ!けれど、あなたはそれを本心からは言っていないね!という感じです。
また、私の人間を一瞬で観察する能力は、その人の性格を細かく想像する事が出来るようになりました。たぶん、そうした想像は皆がしている事です。
けれども、私の方が皆さんより、ほんの少しだけこの能力は秀でていると自負しています。
この能力は、主に、危険の回避や防御に役立っているような気がします。そして、不毛の思考のループから得られた唯一の副産物のような気がします。