小説が嫌い
読書をして、小説というものがどういうものか、少し理解しました。
僕は、自己啓発や心理学というようなジャンルは好きですが、小説は嫌いです。しかし、センドク(本1,000冊を読む)を目標に掲げると、小説も1冊と数えることができるので、我慢して読むことにしています。
なにより、本というのは、その人の表現であり、意見であると理解できれば、自分がお会いすることも出来ないような人のお話を聞いていると思えばよいだけです。但し、一方的に聞かされるという状況ですが、より多くの人たちの考え方を聞いてみるという視点から考えれば、読書は最適です。
さて、そうやって小説を読み進めるうちに、僕の中で小説の何が嫌いなのかが分かってきました。
なかなか郵便局に着かない
僕が小説を嫌いなのは、これが最大の理由だと思います。
例えば、登場人物が自宅の並びにある”郵便ポスト”に手紙を出しに行くシーンがあったとします。
そんな時、小説では・・・
冬の横から差し込む太陽の光を受けて光る、少し上り坂の道を、吐く息を白く映し出しながら、明日には知らせたい、電話ではなく文字として伝えたい、心を写し込んだ手紙を、まるで自分の分身のように大切に抱えながら、それでいて折り目などのシワにならぬように持ち歩くのであった。
朝一番の集荷時間に間に合わせようと、心なしか早歩きではあるが、どこか投函をためらうような気の重たさもあってか、その足取りはやや重く、それでいてやり遂げなければいけないといったようなしっかりとしたまなざしを、その少しだけのぼっている坂道に落としながら、しかし確実に一歩また一歩と歩いているのである。。。。。
着かねぇ!
たかだか、自宅から20m先にあるポストに、着かねぇ!
そんなもの「冬、郵便ポストに朝一番に投函した。」の1行で済む話だ。
奥さん曰く
そんなことを奥さんに話すと・・・
「それが楽しいんでしょ!そういう登場人物の心境や、例えば郵便ポストに投函するまでの道のりを細かく描写して表現するところが読んでいて楽しいところなんでしょ!」
という具合でした。(・・・具合でしたって、僕も小説家きどりかっ!)
そして、そういう描写に対して著者への好き嫌いがあって、好きな著者、嫌いな著者があるのだと言います。
僕という人間は
僕は、これを聞いて、思いました。
小説とは、いかにくだらないことでも長々と文章にできるかどうかなんだなぁと思いました。
どうやら、僕は結果だけを早く知りたい人間のようです。まわりくどい説明より、郵便物を出したかどうかだけを知りたい人間です。
その点、自己啓発や心理学のジャンルは、まわりくどい例えや比喩表現は使わず、ものの考え方や行動方法をバンバン、無駄なく進行していきます。
小説は、そのまわりくどい表現ゆえ、郵便物を出しに行くという目的さえも読み手が忘れるほど無駄な情報が多く、ともすると読んでいて、あれ?今、どんな流れだっけ?なんて思い、前のページを読み返してしまうほどです。
だから小説は、読むのに時間がかかる。うまく拾い読みさえすれば、大筋でストーリーを理解できる。しかし、小説というものは、大筋を理解するだけが目的ではなく、その美しい比喩や描写が読み手の心を豊かにするものだということが分かりました。
ただ、僕には・・・結構。
しかし、空気を見る、というもの
小説のまどろっこしい表現は、いわば空気を見るというもの。
作業机の上にある卓上カレンダーを見つめる時、僕とその間には無色透明だけれど「空気」が存在しています。その「空気」やその間に転がっている「鉛筆」「マグカップ」などを、どのように表現するかで、整理整頓された机にもなるし、散らかって煩雑に物が置かれた汚い机にもなります。
そういう「観察眼」はとても重要で必要なものだと思います。
そう考えると、嫌いでもその表現方法を知る上では、僕には小説は必要かもしれません。
教えて下さい
小説に対して、ひねくれた考え方を持ちながらも勉強のためには必要だとする、そもそも本は娯楽であるにもかかわらず、うがった見方をしてしまう僕に”オススメ”の小説がありましたら、ぜひご紹介ください!
また、こういう読み方をすると面白いよ!ということも、あったらコメントください。
では、では ・・・・オノマトペ。
(久々に、オノマトペで締めくくったわ。)