最終的な選択としての死
自殺をする人の中には、いろいろ考えた末に「死」を選ぶことが最善の策だったという人もいます。お金のこと、家族のこと、残された人のこと… いろいろ考えて、すべてにおいてバランスが良くなる方法として「死」を選んだのだと思います。
消去法で残ったものが「死」という選択だったとすれば、その人にとって「死ぬこと」以外の選択肢はなかったということになります。
けれども、私が経験したように、周りのことなど全く考える余地がなく、まるで素晴らしいアイデアがひらめいた時のように「死ぬこと」を思いつくことがあります。
そのひらめきには「死」がすべてを解決してくれるかのように、「解放」と「楽」が存在していて、苦しみがなくなり楽に向かう「死」があります。
そして、すーっと導かれてしまいます。
こういう状況も「死ぬこと」以外の選択肢がない状態です。
私は、こういう状態が一番まずいと思っています。
なぜなら、家族のことやお金のことなどを考える時間があるときは、誰かに相談すれば良いからです。
突発的に「死」に誘われること…
こういう状態においては、他人に相談するという気持ちは全く起きません。
それもそのはず、本人は素晴らしいアイデアがひらめいたと感じているからです。
多くの人は、私が何を言っているか良く分らないと思います。
けれども、その数パーセントの方々には、そうした状況が起きるとも分かりません。
幸い、私は踏みとどまることができました。
”どうして踏みとどまることができたのか”を書くことで、誰かの未来にお役に立つことができれば幸いです。
芸能人の自殺報道
楽しい気分でTVを見ていると、突然、ニュース速報が流れ、芸能人の自殺を伝えています。
本当にショッキングです。
そんなニュース速報の後、決まって沸き起こる感情は…
「死んでしまったらおしまいだよ、どうして死んじゃったのよ。」という気持ちです。
まだまだ生きれる日々があるのに…
”明日、一日だけでも生きていたい!”という人がたくさんいるのに…
そんな人たちに寿命を分けてあげれたらいいのに… と、とても複雑な気持ちになります。
そんなことを一通り考えた後、次に沸き起こる感情は、TVで訃報を伝えるコメンテーターの言葉から生まれてきます。
「誰かに相談していてさえくれたら…」
必ずと言っていいほど、こういう言葉をコメントします。
最近の芸能人の「死」は、先ほど書かせていただいた突発的なものだと、私は、思います。
素晴らしいアイデアのように「死」を思いつき、他の選択肢が全くない状態で底に向かっていったのだと思います。つまり、人に相談するとか、死ぬのは苦しいとか、迷惑がかかるとか… そんなことは頭の中には全くない状態です。
「相談してくれればよかったのに…」
と、言われても、そういう考えが本人にないのだから仕方がありません。
実際、私は、そういう気持ちに人生で一度だけなったことがあります。
その時は、「死」は怖いものではなく、誰かに迷惑をかけてしまうとか、悲しませるとか… そんな考えは一切湧き起らず、ただ、「死のう。」ときれいさっぱり心から思いました。
今、考えると、とても怖いことだと気が付きます。
想い返せば、あれが、あの状態が俗にいう「魔が差す」ということなんだと思っています。
魔が差すことから逃れる方法
そういう状況になったときにするべき方法というものは、私の経験上存在しません。
なぜなら、一瞬だけですが「死」というものに恐怖を感じず、自分の「死」が一番良いというひらめきの快感があるので、その状況で他のことを考えて、「死」への行動を自ら阻止するということは、不可能だと思うからです。
では、なぜ、「死」への衝動から通常の思考に戻ることができたのか?
普段からの刷り込み行動
私は、普段から、絶対死にたくない、長生きしたい!
そう、強く思って生きてきました。
このことが、魔が差す瞬間を乗り越える方法だと思っています。
つまり、「生」への執着を体に刷り込んでいると、衝動的な死への行動を阻止できるのだと思います。
魔が差す瞬間は「死」が怖いとか、この人生を誰かにあげるとか、人に迷惑がかかるとか…
そんなことは一切頭に思い浮かびません。
「死」の選択がベスト。
「死」の選択こそ「楽」「解放」「良い方法」としか思えないので、後先を考えず、その素晴らしい考えを行動しようとしてしまいます。
ほかの選択肢は一切なく、「そうだ!これが一番の解決方法だ!よかった!答えが出た!」
そんな気分にも似たような、心の底からそうすることが良いと思えてしまうのです。
だから、すぐに行動に移そうとしてしまうのです。
世間では、『どうしてそんなことを… 』と嘆き、非難する人も多いけれど、それしか答えが無く、何よりも素晴らしいと思えているのでどうしようもありません。
私の経験では、この「魔が差す瞬間」は10秒もないくらいだと思います。
その時間をやり過ごし、ふと我に返ると、心から「死」を望んでいた自分に恐ろしくなります。それはつまり、「生」への執着からくる怯えだと思います。「生」への執着がなければ、その魔の10秒間で、衝動的に行動に移していたかもしれません。
何度も繰り返しますが、普段の「生」への執着が、魔の時間をやり過ごしてくれます。
執着が強ければ強いほど、10秒とかからずに自分を引き戻してくれると思います。
躁鬱状態の時は「生」への執着は薄れている
躁鬱(そううつ)状態のときは、生への執着は薄れていると思います。
私の経験では、うつ状態の時は、頭の中で次から次へとどうでもよい考えが湧き、考えることに疲れ果てている状態となります。考えたくないと思っても考えてしまう…だから、できるだけ何も考えたくないと常に思ってしまっています。
うつ状態の時は『これだ!』と思える回答が頭に思い浮かぶことが少なく、思いついたことをあれこれと無限ループのように考えを巡らせてしまいます。どこまでも深く、ドリルで掘り下げるがごとく、時には同じことの繰り返しをしながら、ずっと考え続けます。
そこからは、ひらめく答えのようなものは見つかりません。
見つかった途端に、その答えは本当なのかどうかを考え始めるので、よほど心の奥底または頭の深いところからからひらめいたような感覚でないと、考え続けることになります。
自分では、こうした考えることは「不毛」だと頭の半分ではわかっています。
けれども、残り半分では、考え続ければきっと答えは見つかるから考え続けろ!と叫んでいます。
考えることから逃げ出したいと思っているところに「死」がベストであるという”ひらめきのような考え”が思い浮かぶと、やっと答えが見つかったという感覚になります。
その答えで本当に良いのか!と疑うことは、思考の無限ループに陥りそうで怖い、やっと明確なこと答えが出たのに疑いたくない…。
ひらめきのような答え=「死」が最終結論だと信じて疑わず、回答を得られた清々しさまで感じているのかもしれません。
「死」のひらめきから10秒程度で、こういう思考のやり取りが頭の中で行われるのだと思います。
「死」は最高の答え!と思えているので、答えが出た清々しさとともに、そうすることが一番だと思って疑いません。…そして、死を選ぶ。(相談や悩みを他人に打ち明けるという思考の余地はないのです。)
考えることが嫌だという状態=鬱状態では、「生」に対する執着も薄れているのだと思います。だからこそ、普段からの「生」への執着を刷り込ませておかなければいけないのです。
思考がまともではない状態でも、『生きたい!』という本能に刻んだ「生」への執着があれば、その魔の瞬間をやり過ごすことができます。
人間は生まれながらにして”生きよう!”とする動物です。それが本能です。
いろいろ考えることができない赤ちゃんでも「生」への執着が、本能的に刻まれています。
生まれながらにして、自分の体重をぶら下げられるほどの握力が備わっているのも、その現われです。
生きる!最後は、その「生きる!」という本能が、自分を自ら死へと追いやる行動にストップをかけてくれます。その最終ブレーキを強く利かせるために、普段から「生」への執着を本能に刻みましょう。
生への執着を本能に刻み込む
「死」以外何も考えられない「魔の数秒」。
この「魔の数秒」で「死」への行動を起こさないためには、本能が「生きる」ことを選んでくれないといけません。潜在意識からの「生」への執着が必要だと思います。
それには、普段から「生」への執着を本能に刻んでおかなければいけません。
死にたくない!
絶対長生きする!
骨になっても生きる!
絶対死なない!
自分の体には病気がくっつかない!
自分の体内で病気は発生しない!
など、とにかく死にたくないことを言葉や考えにします。
私は、幼稚園児のころから「生」への執着は強かったと思います。
雷が怖く、雷に打たれると死ぬということを知っていた私ですが、雷はランダムに落ちますので、落ちてきたら避けようもありません。そこに理不尽さのような感情もあったと思います。
どうしようもない、避けることのできない「落雷死」だとしても、私は『骨になっても生きる!』と強く願っていました。
そういう刷り込みがあったからこそ、衝動的な死への行動を避けることができたのだと思います。
今でも同じです。
どんなことがあっても生き抜く、死なない。
病気にもならないし、病気にならないからだだと信じています。
いつか「死」が訪れるとしても、あと100年以上の後のことだと信じています。
こうした脳や体を含めた「本能への刷り込み」がいざという時に発動します。
魔の数秒間に発動するかどうかは、この普段の生活にかかっているといっても過言ではありません。
いざという時、あなたの助けとなるのは、あなたの本能です。
この記事が、未来のあなたのお役に立てたなら幸いです。