もう、やめよう。
仕事や普段の生活で、自分がどんなに頑張っても完ぺきにこなすということはできなかった。
それなのに完ぺきを目指し、うまくいかないことで自分を責めていた。
もう、やめよう。
だって、僕は完ぺきな人間でもないし、完全な技術を持ち合わせている人間でもない。
「だって、僕だよ!?できるわけないじゃん。」
こんな風に失敗や足りない部分、途中で投げ出してしまう部分を笑って吹き飛ばそう。
こういうことも、やめよう。
楽しいことを、自分を責めることで楽しくないものにするのはやめよう。
例えば、スポーツ。本来好きで始めたバスケット。シュート外すと嫌だから、練習する。
練習するにつれて、失敗することが怖いので、とことん練習する。
そうなってくると、バスケットが楽しくなくなってくる。
失敗も含めて楽しい。
完ぺきさを追い求め始めたら、楽しいことも楽しくなくなっちゃう。
うまくいかないから楽しいのであって、次回うまくいくように自分を追い込むこともない。
楽しく終わればそれでいい。
完ぺきを追い求めることで楽しくなくなる。
もし、完ぺきにできちゃったら?!
もし、完ぺきにできたことがあったとして、その時、本当に楽しいと思えるのだろうか?
完ぺきにできたときがないから想像でしかないけれど、きっと、もう完ぺきさを求めなくて
すむという安堵感の方が強いのではないだろうか?
もし、努力もしないで完ぺきにできたとすれば、それが本当に完ぺきなのかもわからない。
人間は、苦労して成し遂げたことをに対して充実感や満足感を得る動物だから、それ無くし
て偶然完ぺきなものができたとすれば、満足感は得られないだろう。
つまり、完ぺきを求めるということは、自分の満足感を求めることであり、苦労すればした
だけ、その幸福度は上がっていく。それと同時に楽しさは減っていき、苦痛ばかりが増えて
いく。苦痛を乗り越えることが満足とは少し変だと思いませんか?
目標を「楽しむ」に変える
スポーツなら、勝っても負けても楽しかったと思える試合をする。
もちろん、勝つために練習をするのだけれど、負けたからといって練習の内容や自分の技術
を責めない。負けたけれど、自分はその試合を心から楽しめたかどうか?
楽しい試合だったなぁと思える試合をすること。それが大切。
日常生活において、基本、人間は嫌いなことはしない。
つまり、朝起きて寝るまで、自分が嫌いなことはしていないのです。
ところが、ストイックに完ぺきさを求めることを始めると、途端に嫌いになります。
もともと好きだったことを嫌いにしてしまうのは、人生の楽しみを自分で減らしているとい
うことです。
『出来なくても、いい。だって、こんな自分だよ!こんなところで良しとしよう。
そんなことより、これ、楽しかったなぁ。』
こんな風に過ごせたら素敵ですよ。
・・・・オノマトペ。