本に対して怒りがこみ上げるのは感受性が豊かな証拠だが、それは必要ない。

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意見は違って当然。

良いところ、共感するところだけもらえばいい。

読書も同様。

すべてを正しく僕の中に取り入れる必要はない。

本は読む前の期待値と違う時も多々ある。

著者は完璧な先生だったり人間だったりはしない。

自分もブログを書いているが完璧な人間ではない。

それと同じ。

そういう人の意見や考えがすべて正しく、自分はそれに従わなければいけないということではない。従えるところがたくさんあると思って購入した本でも、そうでない時がたくさんある。

そんな時は、無理に本の言うことを聞く、先生の言うことを聞くのではなく、共感できるところだけ真似をすればいいのだ。

僕が、これは違うと思ったことは聞き流せばいい。

それに対して不快や敵意を向ける必要もない。

どうして、不快さや敵意が生まれるのか?

それは、この本や著者の言葉に期待をしたけれど、期待していた内容と違ったという、いわば、裏切られたような、僕の背中を押してくれなかったような、残念な気持ちが変化したからだ。

残念な気持ちは、どうして?!こんな内容なの?といった怒りに似た気持ちになるのだ。

著者だって人間、僕と同じで完ぺきではない。

本やブログも、同じ気持ちになる人もいれば、裏切られたような気持ちになる場合も有る。

だから、怒るのではなく、そういう件もあるのだなぁと聞き流す部分は気聞き流す。

また、著者からしても、そうしていただいて結構だと腹はくくられているはずなのだ。

それでも、参考になればという親切心で本にしている。

その親切だけ、必要な個所だけを受け取ればよいのだ。