体罰教師の問題と教育を俯瞰で考えてみました。

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体罰教師の問題を取り上げる時、その体罰に愛情があるのかどうかという論点になりがちです。その一方で、生徒が教師を挑発するような態度が原因の場合、体罰はいけないけれど、製ともどうかと思う・・・といった議論になります。

教育は、道徳を教えるところまでなのか、良い学校に入れるための勉学の知識だけを教える事なのか・・・そういった、教育とは?という議題にまで発展し終息します。

僕も今までは同じような思考でした。

結局、答えは見つからず、本人の道徳観やら、体罰の環境やらといった不規則なパラメーターでは、一概に体罰を語ることは出来ず、それでも、暴力だけはいけないという不確かな結論で、自分の中の思考は停止していました。

でも、そうではないのではないか?という気持ちが浮かんできました。

もっともっと大きなところに問題があるのではないかと思ったのです。

それは、国のシステムとして、良い学校に行けば、将来を安定して暮らせるというバブル崩壊期前までの神話では通用しなくなっているのに、教育者や親は、それを子供に押し付けるからなのではないかと思うのです。

つまり、教育というものを子供に押し付ける「大義」が崩壊しているにもかかわらず、子供たちには幻想を抱かせているというギャップが、生徒も先生も行き場のない不満として、お互いにつらくあたるのではないのでしょうか。

高学歴は生活を安定させるための材料にはならない事をとっくに子供たちは見破っています。

ここを大人は真摯に受け止め、大人が「教育」を再考し、教育は物理的に個人を豊かにするものではないと宣言しなくてはならないと思います。

こういうところに立ち戻り、教育をすれば、点数ありきの教育は無くなります。人を豊かにする教育があってこそ、人の痛みも分かるようになり、その痛みは「愛情」からくるものなのかどうかも理解できるようになると思います。

子供に何のために教育があるのかを説明できる親は少ないと思います。僕もそうです。しかし、先ほどのように、卒業した学校のレッテルでは安定した生活はもはやできません。そもそも、そういう風な風潮にしてしまった大人に問題があり、今、その間違いを訂正するべき時かもしれません。

この先、人間として豊かな心を持った日本人が増えるために。

・・・・オノマトペ。