楽しさの基準
楽しくないという心の動き以外は、どちらかといえば楽しいということになる。
楽しい方を選ぶ 例:その1
例えば、昨日、こんなことがあった。
どうしても、受け取る側にとっては「イヤミ」と取られてしまいそうなメールを送るかどうか迷った末、結局、送らずに帰ってきてしまった。それを送ることは、かなり正当性があったけれど、タイミングが悪かった・・。
それでも、オフィスを出て、近くの交差点まで来たときに、信号待ちのわずかな時間で、やはり送っておくべきだったかと後悔をし始めてしまった。
オフィスまで戻りパソコンを立ち上げ、メールソフトを起動して、下書きに保存してあるメールを送るためだけに、わざわざ引き返すのも面倒だが、今日というタイミングで送っておくほうがベストではないか・・・?
そうしているうちに、ひとつの考えが浮かんできた。
どちらが楽しいか?ということである。
このまま帰ってしまうことで、メールを送っておけばよかったという後悔と、オフィスに戻りメールを送った結果、その時点では僕の心はスッキリするのだけれど、そのあとにくる”相手はきっとイヤミだと解釈し、僕のことをあーだ、こーだと考えるに違いない”ということを、僕は気にして過ごさなくてはいけなくなることと、どちらが楽しくないのかを考えてみた。
たしかに、どちらも楽しくない。
この場合は、どちらも楽しくないけれど、どちらかといえば、どちらが楽しいのかを選択する作業だ。
結果、メールを送ってしまい、その後、”送ったことで発生するであろういろいろな物事を気にすること”の方が楽しくないことだと判断して、青信号になると帰路に歩みを進めた。
楽しい事というのは、こういう比較もあるのだと心に刻まれた瞬間だった。
ただ、うわべだけの比較ではなく、辛い事の中でも楽しさの比較はできるということは、この先の人生「楽しく生きる」うえでは、良い心構えとなった。
こういう、どちらかといえば楽しいほうを選択して生きるということは、結果的に楽しい事しかしない生き方になるのだと思うからだ。
楽しい方を選ぶ 例:その2
他にもこういう考えが、浮かぶ。
サッカーが好きで好きで仕方がない。練習がが辛くても苦しくても、時には体罰があっても、好きだから続ける。しかし、ある時、急にやりたくなくなってしまう。飽きたのかもしれないし、体罰が嫌だったのかもしれない。
この時、何事もやり続けるという「美徳」というものを大人は教えてはいけない。「忍耐」というものが、それほど「美徳」ではないからだ。僕はそう思う。
楽しくないことを続けることのどこが美徳なのだろうか?
こういうことを知らない当時の僕は、続けなかったことに対する「挫折」と「後悔」をその後25年以上も持ち続け、何かというと、この「忍耐力」の無さを自分の欠点としてきたところがある。
もし、あの時、我慢して続けることは楽しくない時間を過ごすことなので、人生という大切な時間を楽しくないもので埋めるべきではないと、誰かが教えてくれていたなら、ああした挫折感をもって生きずにすんだのにとも思う。
どんなに辛くても、自分が楽しいと思えばやめるという思いは一切起こらないはずである。その先に1ミリの楽しさもないと分かったからやめたのであり、その発見を本来は喜ぶべきだったはずなのである。
仮に、少なからず楽しさが残っていても、やめたいと思うのは、やめた方が楽しいと思うからだ。決して、楽(らく)な方を選ぶということではない。それは、再三、言うように、辛くても楽しければ続けられるものなのだから、楽(らく)をしたいからという理由で、楽しいことはやめないのである。
それぞれの楽しい基準
さて、さて、自分のことはともかく、こうして考えていくと「楽しい」という基準も考えなければいけない。それは、個人ごとに違うものだから、自分が楽しいからといって他人はそうとは限らない。
こうした楽しさを選ぶという考え方は共通認識として、その基準は人それぞれだということを理解し、その人の「楽しさ」の追及と追及した結果の行動を尊重しなければいけない。
頑張った先に成長があり、それが楽しいと考える人もいれば、その先に楽しさを見いだせず、方向転換することの方が楽しいと考える人もいる。だれかが強要するものでもないし、強要してはいけないものである。
だから、先ほどのように親が「美徳」を押し付けることもいけないのだ。
本人が選び、本人が考え巡らせた結果、自分の楽しい道を選ぶことを、そっと見守ってやるのが尊重なのだ。
ただし、こうした深いところまで考えずに、ただ単に目先の快楽を簡単に求めるような安易な思考をしがちな人には、考え方のバリエーションを教えてあげる必要はある。ここが、実は難しいところなのだが、つい、介入しすぎると相手を尊重していないことにもなりかねない。
なんとか、その人が「楽しい」と思える答えを導き出すために、アドバイスをするとすれば、使い古した言葉でいうならば「頭でなく心が出した答えに従え」というところなのだけれど、心がどこにあるのかわからない人も増加しているので、困難極まるところである。
そんな僕は、いつも左胸の中央寄りあたりの心臓のうえを右手でトントンと、時にはドンドンと叩いて、今考えていることの本当の気持ちを確認している。叩いた場所が気持ちとしてプラスに動くのかマイナスに動くのか、これを判断材料にしている。
是非、試してみて欲しい。
楽しい人生の送り方
「楽しい」ことだけを選択し続けて人生を送れれば、その人の人生は全部が楽しいことで埋め尽くされるはずで、本来、人間はそうしたことを求めて生きているのである。ところが、目の前の誘惑が多すぎて、それを忘れてしまうか、お金や出世といった”ものさし”だけしか見えなくなってしまうことで、楽しい人生を送るという”ものさし”をどこかにやってしまう。
つまり、楽しく人生を送るための自分なりのものさし(基準)を無くしてしまうのである。
楽しい方を選ぶという”ものさし”がないので、物事の判断は、あいつより出世ができるのか、お金がたくさん儲かるのか、ということだけを測るものさしで他人と見比べ、人生を過ごしてしまうのである。
そうして、棺桶に足を一歩踏み入れて、ふと気が付くのである・・・
「僕は、何のために生きているのか?」・・・と。
自分の楽しいと思える基準(ものさし)をどうぞ持っていただきたいのである。