私の苦手(欠点)
昔から、体育や図工だけは成績が良い子供でした。
その他の教科は、普通が最高で、あとは普通以下でした。
通知表には「もう少し落ち着きが欲しいですね」と書かれることが多く、じっとしているのが苦手な子供でした。
学生時代は運動に明け暮れ、大人になると、運動はあまりしなくなりました。
けれども、落ち着きがない性格は直りませんでした。
それもそのはず…本人にはその自覚がありませんでした。
腰が落ち着かず、興味があっちにこっちにいくということを”落ち着きのない事だとは認識していないのです。それでは直しようがありません。
落ち着きのないことは欠点だと思い込む
まったく能天気に興味のあることにフラフラと近寄っては、また別のことへ…。
そんな性格は社会人になってもそのままでした。
時代はバブルが丁度はじけた時でした。周りでは、リストラで会社を辞めさせられたり…そんな時代に突入したころです。
私も人員整理にあい、転職を余儀なくされました。24歳位で初めての転職経験をしました。
無事転職したのもつかの間、その会社では1年ごとに転属を言い渡され、これでは、自分の手に職は付かないと思い、3年ほどで次の会社に転職しました。
この頃から私の周りでは、私は腰の落ち着かないやつだという雰囲気が漂い始め、私自身も落ち着きのない性格ゆえそうなのだと思い始めました。
はじめて、自分は飽きっぽい性格だと自分の性格を決めつけるようになりました。
海外ではこうした転職は当たり前でしたが、当時の日本では、一旦就職したら最後までその会社に尽くす!という風潮がまだ残っていました。特に年配の方々はそうした気質の方が多かったように思います。
苦手も個性だと思えるようになった
楽しくなくなる、飽きる、いやになるとすぐにやめる。
部活の事も頭の中ではリンクし始め、あの時、部活を続けていれば、こうした転職を繰り返さずに済んだ自分がいたのか?(部活の事は別記事)
だから、あえて辛い事をし続けることが部活の挫折感を払しょくさせ、そのつらいことを克服することで、自分の飽きっぽい性格が直るのではないかと考えた時もありました。
けれども、それは間違っていました。
「逆」を考えた時、辛いことを率先してやり遂げることが飽きっぽい性格を直すのだというロジックが壊され、心が晴れました。
逆を考える
私の様に何度も転職をすることは、他の人にとって簡単な事だろうか?
私は、幸い、無職の期間がほとんどなく転職が出来てきました。
他の人はこんなに器用にできるだろうか?
私は転職を繰り返すことで、会社の仕事に対してストレスを溜めることなく、好きなように仕事が出来てきました。
ストレスがあれば上司に伝え、改善されないのであればその会社を去る。
他の人は、そういう事を言う勇気はありません。なぜなら、そのあとの転職が上手くいくかわからないからです。そやって我慢をして仕事を続けてしまいます。
部活の時を思い出せば、先生に意見するという行動をしたのは私だけでした。自分が嫌だと思う事は、先生に対しても意見をしました。
社会人になっても上司に意見するのは当時と同じ事。
飽きっぽいのではなく、自分が伸び伸びと出来るため、部活や会社が良くなるために自分の意見を伝える、それを聞き入れられなければ、去るのみ。
去っても、次の居場所を私は見つけられる。
他の人はそれが出来ない。
他の人は、私を腰が落ち着かないやつだと卑下するけれど、本当はそういう私をうらやましく思っているんだ!
他の人が持ち合わせていない感覚… 先生や上司にも意見を言うということ…
これは、私の個性なんだ!
そう思えるようになったとき、周りの声は気にならなくなりました。
八方美人も個性
「八方美人」。
この言葉は、あまり良い意味では使われません。
この言葉も良く言われた言葉でした。悩んだこともありました。
けれども、先ほどと同様、そういう言葉を私に投げつける人は、八方美人が出来ない。
つまり、卑下している人は私を羨ましく思っているのだと考えたら、楽になりました。
もちろん、本当にうわべだけの八方美人にはならないように、時折、私は私自身をチェックしています。
そうした気持ちの切り替えによって、自分があちこちに顔を出すことに対して他人から「八方美人」だと言われても、気にしなくなりました。
「ああ、あの人は、きっと、私のようにこういう風にうまく人付き合いしたいんだな。」
という風に聞き流しています。
案外、こう考えると、自分が欠点だと思っていたことが、実は、自分の個性であり、それは他の人が真似しにくい事だったりすることがあります。
個性だけど他人に認められたわけではない
このように考えることで、いろいろ少しだけ楽になる自分がいます。
でもこれは、自分の欠点だと思っていたことが他の人にとっては羨ましい事かもしれないと、自分で想像した事です。
”あいつ、俺を羨ましいから、あんなこと言ってんだ!”
こう解釈することで、私って「八方美人かな?」「腰の落ち着きが無い人なのかな?」と自分を責めることはなくなります。
けれども、他の人は八方美人!落ち着きのない人!といつまでも言葉を浴びせてくるかもしれません。また、そうした私の個性を羨ましくもなんとも思っていないという事実があるかもしれません。
私が心にとめておきたかったことは、自分で自分を責めてはいけないという事です。
他の人からいろいろ言われたことに対して、落ち込んだり、反省したり、自分を責めたりせず、それは自分にしかできない事で、他の人はそれが羨ましいから、あんな言葉を投げつけてくるのだと思えば、落ち込まずに済むという事です。
人前では緊張して話せなくなるのも、うまく物事を伝えられない事も、八方美人も転職も…全て個性!個性だから当然、他の人には受け入れられない部分も出てきます。
…でもいいんです。
他人に受け入れられるように、欠点と言われた部分を直すような努力をする必要はないのです。なぜなら、欠点と言われた部分は、逆に考えれば個性であり、他の人には真似のできない長所だからかもしれないからです。
その自分の長所をたった数人の意見のために修正する必要はないのです。耳をかさなくてもいいのです。私を嫌いという人に対して、私を好きになってもらうための努力を私がする必要はないのです。
いくらどうこうしたって、私は私。
他の人の意見に振り回され、その都度、他の人に適合していく自分を作り上げることは本当に疲れます。そのたびに自分を否定しては壊し、その人に合う私を作り上げる。その中に本当の私はいません。
世の中を見てみれば、個性の強い人の方がテレビなどで長く活躍されています。
受け入れられようが、られまいが、自分を大切にすること。常に、自分は自分の味方。人の言葉を全て真に受け、自分で自分を否定したり、反省したり、修正してはいけないと思いました。
なにも頑固になれと言っているのではありません。
人から指摘されたら落ち込むような、他の人から見たら欠点に見えることも、それは個性であり、将来の長所にもなり得ると、自分に言い聞かせることが大切だと思います。
ただし、素直に直せるところは直す。その素直さも個性です。
逆に…
もし、自分が人の欠点を指摘したくなった時は、それは、その人の個性であると認めてあげることも大切です。個性として認めてあげることと、その個性・その人を好きになるかどうかは別問題です。個性を認めたうえで、その人がキライならそれでよし。その人の個性を修正させる必要もないし、自分がその個性に合わせる必要もない。ただそこにはお互いの個性が存在して、お互いがその個性を認め、理解し合うだけでいいのだと思います。
お互いが、欠点は個性だと認め合えば、苛立ちは治まると思います。
人に合わせず、落ち込まず、自分らしく、楽しく時間を過ごしたいですね!
・・・オノマトペ。