私は、書いた記事をみなさんに読んでもらえたら励みになります。
私の「オノマトペ」ブログは、最近では精神論的な記事が多くて、読んでいると疲れてしまう内容が多いと思います。
そういう記事は、自分の気持ちと対峙している時間が長いので私自身もいつもヘトヘトになってしまいます(笑)。
けれども、そうした記事の方が良く読まれている事にビックリ!しています。
自分の愚痴や精神状態を書くことで整理していることが、他の人にも共鳴しているのだと思うと、こういう悩みは私のものだけではないのだなぁ… と、逆に癒されています。
ありがとうございます。
精神的にすり減るけれど考えること
人の気持ち
人の気持ちは、常に動いています。
同じ内容のメールでも、見る人によって解釈の感情が違います。
極端な事を言えば、同じ人でもメールを見るタイミングでも違ってきます。
朝はイラついたメールの内容でも、翌日の朝では何とも思わなかったり…。
そんな事が当たり前のように起きていて、そういう人たちの気持ちが毎日重なり合って社会が動いています。本当に、凄い事です。
このブログも、昨日はいいな!と思ってくださったとしても、今日は妙に腹が立ったり…
人の気持ちって、そういうものだと思います。
正しいとか、正しくないとか
中学の時、私は、国語がキライでした。
理由は簡単です。
読んだ文章についての私の感想が、採点されるからです。
人それぞれの感じ方があって良いのに、それを点数で優劣を付けるなんておかしいと感じていました。
そういう子供だったので、ひねくれて育ちます。
けれども、そういう屁理屈をこねる性格を”ひねくれ”と言い現わすのではなく、自分に正直な性格だと言い現わせば、なんだかそんな性格を正当化されたような気がします。
世の中の矛盾
人の気持ちって不思議です。
世界平和を望んでいるのに、平和のために戦争をする。
死後、極楽へ導く宗教が何種類もあって、それぞれの神を崇めさせるために、どこの神様が一番偉い!と宗教同士がもめる時がある。
幸せはなるものではなく、感じるものだと歌っているアーティストが、幸せになろうよと歌うようになった。
知りたいけれど、知ることは不可能な「こころ」の中
人の気持ちは他人には本当のところはわからない。
気持ち(こころ)は、いつも流動的です。
よく『あの人は○○のような人だ。』だと決めつけることがあります。
でも、そんな風に私が相手を決めつけても、それが相手のすべてではないのです。
たまたま、私が軽蔑するような行動をとらせる心の動きがあり、その人はそんな行動をしてしまっただけなのです。その一瞬の心の動きで起こされた行動が、私は気に食わなくて『あの人は○○のような人だ。』とレッテルを貼ってしまっているのです。
そのように考えると、つまらない一瞬の出来事で、その人にレッテルを貼るのは良くないことだと反省をさせられます。
けれども… つまらない一瞬の出来事で貼るレッテルは、案外、当たっているのです。
一事が万事。
昔の人は良い言葉を残してくれました。
まさに、私がレッテルを貼ることと同じです。
つまらない一種運の出来事から、人を判断し、ああいう人だと決めつけてはいけないと反省をしたいと思っても… その決めつけが、結構、的を射ているのです。
どうしたものかと考え始めるとカオスに陥ります。
心の正直に言葉を発しても、明日の心は今日発した言葉とは正反対のことを言い出しているかもしれません。正直な言葉でも正反対になってしまう可能性があるのに、そこに「嘘」が加われば、もう真実を知ることは不可能です。
本当のこと…とは、知ることが出来ないものと考えた方が良いのかもしれません。
それでも相手の本当の気持ちを知りたいと思った時は…
相手の気持ちをいろいろ分析しても、考えがまとまらない。
まとめようにも色々な可能性が考えられ、そのひとつひとつの可能性についてさらに細かく場合分けして分析しはじめる。
そんなカオスに陥ったら、最初の自分の直感を信じてみるしかない。
どうせ相手の本当の気持ちを知ることが出来ないのだから、そのまま悩み続けて時間をただただ浪費するより、その直感を信じて行動することで悩むことから脱出ができます。
- 相手の本心は知ることが出来ない
- 直感を信じて行動する
そのような結論を得られたことだけでも良かったと思うことにする。
悩み続けても何も生まれない。
直感とはいえ、とりあえず動くことで、悩むことから脱出するという結果を生むことが出来ます。悩みからの脱出は、カオスに陥り深みにはまった自分を救ってくれます。
悩みから脱出する方法は、直感に従い、行動に移すということです。
直感で動いた結果、悪い結果を生むかもしれません。
後悔する結果となるかもしれません。
それでも、動き出さなければ、何の結果も出せずに、今なお悩み続けていることになります。
自分の直感まで疑ってしまったら、もう抜け出せなくなります。自分の直感は、あくまでも直感であり正解かどうかはわかりません。
そもそも直感ですら、単なる自分の相手や物に対する勝手な決めつけです。うがった見方、色眼鏡で見ているときもあります。
けれども、その直感を、色眼鏡で見ているのかな?なんて自分自身を疑いだしたら、直感で動くことすらできなくなってしまいます。
間違った決めつけでも何でもいいから、悩むという行為から抜け出すことが肝心です。そのきっかけを自分の直感というものに託しているだけなのです。直感が外れたからといって、自分を責める必要はありません。
むしろ、悩むという永遠ともいえる苦悩の時間から脱出をさせてくれた”きっかけを与えてくれたもの”として、自分の直感に感謝するべきだと思います。
悩んだら、頭ではなく心に聞こう!!そして、心の直感で動き出そう!
この記事を書いていて思い浮かんだこと
こうして記事を書いているだけで精神はすり減ります。
そんな時、良い方法を思いつきました。
魔法の言葉「面倒くさいから、全部無視!」です。
私は、考えずにはいられない性格なので、いつも頭の中でいろいろなイマジネーションや人の気持ちや自分の気持ちがフル回転で交差しています。
考えたくないと思っても、勝手に考え始めてしまいます。
そして、その答えを探しだします。
答えは見つかりそうで、見つかった途端、その答えの証明を始めます。
(本当に面倒くさい頭の中です。)
その答えが正しいと証明しても、その証明を証明する事になります。本当に正しいか?と。
本当に面倒くさいので「面倒くさいから、全部無視!」と言って全てを無責任に放り出します。
面倒くさいというのは、相手に対してではなく自分のこういう考える癖の事です。
どうせ考え続けても答えが出ないのだし、答えが出ないのなら、途中で考えるのをやめるわけだし…考えることをやめるという事は途中で放り出すことだし…どうせ途中で放り出すのなら、初めからやらなければいいんだし…。
最初に放り投げるのも途中で放り投げるのも一緒。
だったら、ほんの一種運でも面倒くさいことに触れない方が良いということです。
最初から放り投げてしまうに限ります。
「面倒くさいから、全部無視!」
そういって、考え癖が始まろうとするまさにその時に、この言葉をつぶやいて、すべて放り投げるという手段を編み出しました。
このことで悩む時間が無くなり、その分、有意義に時間を使えた方が良いです。
いい呪文だと思いませんか?
いざというとき、カオスな思考回路に陥った時、陥ろうとしている時…
いつでも使ってみてくださいね!